運動論として、 なぜ、逆転勝訴できたのか、

ナイジェリア人夫に対する2007年2月22日福岡高裁控訴審判決

の意義と影響  その2

 中島 眞一郎(コムスタカー外国人と共に生きる会)

 

1、はじめに

 

2007年2月22日の福岡高裁の逆転勝訴判決は、同年3月9日に被控訴人が最高裁への上告を断念し、この判決は確定しました。そして、控訴人(以下、Aさん)に、同年3月15日、在留特別許可により「日本人配偶者等(在留期間1年)」のビザが付与されました。

このケースでは、原審の福岡地裁の段階では、原告本人は大村入国管理センターに1年

1ヶ月収容され出席できず、代理人の弁護士一人、傍聴者がその妻と支援の私一人という法廷がしばしばありました。控訴審では、支援者もやや増え、傍聴者も10数名になりましたが、それでも支援体制は弱体でした。原審敗訴判決の際に、マスコミ数社による報道はありましたが、控訴審判決時までに事前取材は無く、判決当日の法廷取材は1社のみで、マスコミを通じて世論に訴えていくこともできませんでした。大きな組織や団体の支援も皆無で、原告とその妻の当事者二人と、弁護士一人、少数の支援者という最小の支援体制でしたが、裁判闘争を支え、勝訴判決を得て、在留特別許可を得るという最大の成果を挙げることができました。

 

2、 逆転勝訴へ至る歩み

(1) Bさんからの相談

 

2005年1月中旬、最初日本人妻(以下、Bさん)から相談のあった段階では、Bさんによると2005年1月5日に警察へ通報した者が誰かわからず、「近所の人であろう」と言うことでした。しかし、警察のパトカーがアパートの下で待ち構えていた状況から考えて、内部の事情をよく知る者からの「通報」による逮捕が考えられるとBさんには、話していました。

逮捕の翌日、Bさんが婚姻届を提出し、二人の婚姻の意思が固いことや、Aさんが「不法残留」以外の違反行為がないことから、逮捕されても、検察庁ではなく入管へ送られ、場合によっては、Aさんの収容中に『在留特別許可』が取得できるケースとなりうると判断していました。

 

(2)Bさんの父親からの警察や入管への通報

 

ところが、Aさんは、逮捕容疑は「旅券不携帯」でしたが、検察庁に送致され、刑事事件として、入管法違反で起訴されてしまいます。その刑事裁判で、Aさんの弁護を国選弁護人に依頼しましたが、その弁護人より、検察官の記録の中で「通報者」がBさんの父親であることが伝えられました。Bさんは、Aさんとの婚姻の唯一の理解者と信じていた父親に裏切られていたことを知り、大きなショックを受けました。

Bさんの父親は、婚姻に反対する意思をBさんには隠し、AさんとBさんの婚姻をやめさせるため、入管や警察に頻繁に連絡をとり、Aさんをつかまえ、退去強制させようと画策し、逮捕当日も、警察に指示してAさんを逮捕させました。逮捕後も、警察官や検察官と連絡を取り、「Aさんを起訴し、懲役1年以上で執行猶予の付いた有罪判決となるようにして、退去強制させる」ように指示していました。懲役1年以上の有罪判決の場合、執行猶予が付いても上陸拒否事由者となり、半永久的に日本への入国ができなくなります。

Bさんの父親は、そこまで計算して、Aさんを日本から退去強制させ、Bさんとの仲を引き裂こうとしました。Bさの父親の狙い通りに、熊本県警と熊本地方検察庁、熊本地方裁判所は、動いていきます。さらに、福岡入国管理局も、刑事裁判の判決前に熊本京町拘置支所まで警備官を派遣し、違反調査を行い、判決後わずか8日間で、在留特別許可の審査を行い、その申請を不許可とする福岡入国管理局長による裁決を行ってしまいました。

 

(3)行政訴訟の提訴

 

刑事裁判判決後に入管へAさんの身柄が引き渡される段階で、在留特別許可の申請をめざし、Bさんを身元保証人として仮放免申請を行う予定でした、しかしながら、仮放免申請を行う余裕もなく短期間で裁決がなされ、退去強制令書発付処分がなされました。そのため、退去強制を防ぐには、訴訟しか方法がなくなりました。

日本で夫婦としていっしょに暮らしたいという意思が二人には強く、訴訟してもがんばりたいというものしたので、福岡在住の弁護士に代理人を依頼して、2005年4月上旬福岡地裁に本案訴訟を提訴し、あわせて執行停止の申し立てをしました。

 

Bさんには、Aさんが警察から逮捕―検察官から起訴され、入管から在留特別許可も不許可となる裁決の扱いをうけたのは、Bさんの父親の意向を配慮して行っており、裁判を有利にするには、Bさんの父親に、二人の婚姻を認めてもらい、裁判でAさん側の証人あるいは陳述書を書いてもらえるようにできないかと、相談しました。Bさんは、当初、父親への不信感が強く、「とてもできない」といっていましたが、夫であるAさんを助けるため、父親に話をしてみるといいました。

 

(4)  Bさんの父親の原告側への協力

 

Bさんの父親は、警察や検察や裁判所や入管など公的機関は、全て自分の狙い通りに動かすことができましたが、娘であるBさんはAさんが逮捕された2日後に予定通り婚姻届を提出し受理され、また、Aさんの拘留先に面会を続け、AさんもBさんとの婚姻を理由に在留特別許可を申請し、それが不許可となると、その処分取消を求めて訴訟を提起するなど退去強制されることを拒否しつづけ、結局、Aさんを退去強制させることができず、娘の

Bさんが憔悴し、衰弱していく様子に心を痛め、痩せていきました。

 Bさんより、同年4月に入り、「父親が二人の結婚を認め、裁判にも協力してくれることになった」という連絡がありました。父親は、当初、警察や検察や入管も、全て自分の意図どおりに動かせたと思い込んでおり、自分が入管に連絡すれば、Aさんは釈放されると信じていました。

そして、実際、入管や法務省へ電話して、「父親として二人の婚姻を認めるので、Aさんに在留資格を与えてほしい」と訴えましたが、入管は、今度は全くその意向を聞きいれようとはしませんでした。入管は、Aさんを退去強制する方向では、父親の意向どおり動きましたが、それをやめさせる方向では全く動こうとしませんでした。

Bさんの父親は、結局自分の通報が、警察や入管に利用されただけであることを思い知らされることになりました。Bさんの父親から、これまでの経緯を弁護士が聞き取り、「二人の婚姻を許し、日本で夫婦として暮らせるようにしてほしい」という趣旨の陳述書と原告側証人として申請を同年4月下旬に裁判所へ提出しました。

 

(5)裁判所の執行停止決定の遅れと、Aさんの送還停止のみの決定

 

 この事件の発端であり有力な原因者である父親が、原告側に味方することになったことで、裁判官の心証にも大きな影響を与えたと思われます。第1回の口頭弁論での裁判官3名の対応は、原告側に好意的と感じられました。

また、通常申し立てから1ヶ月以内に決定が出されるはずの、執行停止の決定がいつまでもなされず、原告の代理人弁護士は裁判所内のうわさとして、「全部停止(送還停止だけでなく、収容停止の決定まで)の決定がこの事件でだされるのではないか」と聞き、期待を抱かせました。しかしながら、その期待は、同年8月上旬のBさんの証人調べが行われた口頭弁論終了後の8月中旬に、送還の執行停止のみを本案訴訟確定まで認め、収容の執行停止は認めない」という決定により、費えました。

普通なら「控訴審判決確定まで」となるところが、「本案訴訟確定まで」となったところに、Aさんに同情的な裁判官の心証の一端を感じさせました。

 

(6) 福岡地裁での本案訴訟の審理と結審

 

しかし、福岡地裁の訴訟の進行は、原告側人証申請のうち、原告Aさんの本人尋問は採用せず、弁護士の聞き取りによるAさんの陳述書の提出になり、Bさんの父親は採用せず、妻であるBさんのみの証人として採用するだけでした。Bさんは、証人として証言した直後の傍聴席で、緊張から病気の発作をおこし、裁判所から看護士をよんでもらい控え室で休みました。

被告は、Bさんの父親の問題を一切ふれず、「二人の婚姻は交際期間も短く、同居もしていないこと、逮捕後に婚姻届が出されており、夫婦として保護すべき特別の理由がない」「不法滞在が3年半に及び、Aさんの在留状況が悪質」、Bさんについても、Bさんの旅券の履歴を調べて、「ここ数年のうち何回か海外旅行歴があり、ナイジェリアへいって暮らすことは可能など」と主張しました。

福岡地裁での審理は、4回の口頭弁論を経て、2005年10月に結審し、2006年1月に判決言い渡しとなりました。

 

 

(7) Bさんの自殺未遂

 

Bさんは、熊本市から毎週1回4時間ほどかけて、長崎県大村入管センターまでAさんへの面会を続けていました。Aさんの仮放免申請を2回しましたが、すべて不許可となりました、結審後の、同年11月に熊本市内の自宅で、Aさんへの自責の念と自分が死んでAさんを自由にしてやりたいと考え、薬を大量にのんで、自殺を図りました。偶然、大村入国管理センターからAさんがBさんへ電話したところ、様子がおかしいことにきがつき、弁護士とBさんの母親に電話して、親戚の方がBさんの自宅を訪ね、救急車でBさんを病院へ運び、胃を洗浄して一命は取り留めました。それ以降、Bさんは、病気を進行させ、

何度か自殺未遂を繰り返すようになっていきます。

 

(8) 福岡地裁での本案訴訟の敗訴判決

 

 同年12月の3回目のAさんの仮放免申請も不許可となりました。ただし、その理由が「第1審判決を控えていることや、収容から1年を経過していないことなど」が感触としてあげられていましたので、判決後の4回目の仮放免申請は釈放の可能性を感じさせられました。

原告の代理人弁護士は、事前の予想として、「敗訴もありうるが、五分五分、それ以上で勝訴判決もある」という予想でした。私は、訴訟の進行状況や執行停止決定の結果から、どちらかというと敗訴の可能性が強いと予想していました。2006年1月 福岡地方裁判所民事2部は、原告の請求を棄却する敗訴判決を言い渡しました。

2005年3月7日の元中国残留孤児の婚姻前の娘2家族7人の退去強制令書発付処分を取消した福岡高裁判決の論理を、原告は主張していました。福岡地裁の判決は、その論理に沿いながらも、入管法の違法性の事実を重く見て原告の請求を棄却しました。

結果は、敗訴判決でしたが、AさんとBさんがすぐに控訴して、裁判を続ける意思であること表明していましたので、福岡高裁へ控訴することになりました。

 

 

(9) Aさんの仮放免許可による釈放

 

控訴審は、よりきびしい状況が予測されました。

Bさんは、夫であるAさんとの面会を行いやすくするため、熊本市から長崎県大村市に引っ越し、仕事も見つけました。

私は、Bさんに4回目の仮放免を申請することを進め、Bさんは、2006年1月に申請しました。そして、2月下旬に仮放免許可が認められ、Aさんは、1年2ヶ月ぶりに釈放されました。そして、長崎県大村市で、夫婦二人で同居生活がはじまり、控訴審の口頭弁論にも、夫婦でいっしょに出席できるようになりました。AさんとBさんには夫婦の実態があり、その婚姻は真実のものであるという心証を控訴審の裁判官に与えることができるようになりました。

 

(10)控訴審での原告側証人採用

 

それでも、2006年4月下旬の控訴審第1回の口頭弁論での裁判官3名の反応は、どちらかといえば冷たく感じられました。被控訴人側は、原審判決どおり、早期結審を主張し、控訴人の主張に反論することはないという立場でした。

控訴人側は、婚姻が真摯なもので、二人には夫婦の実態があることとともに、妻の病状の悪化と控訴人の退去強制が行われると妻のBさんがナイジェリアへ行くことは不可能で、婚姻関係が破綻するなど重大な影響があることを争点として強調することにしました。そのため、証人として妻の担当の医師、そして原審に引き続いて一度妻のBさん、原審で証言できなかった控訴人のAさんの3人を人証に申し出ました。

同年6月上旬の第2回口頭弁論で、控訴人の証人採用を認めず、結審されることになるのではというきびしい予測が弁護人からなされました。この日の口頭弁論では、終了後すぐに別室で、裁判官が今後の進行を協議するための弁論準備手続きに入る旨宣言しました。この時点で、結審されなかったことに安堵するとともに、弁論準備手続きを終えて返ってきた弁護人の報告は、控訴人側にとって最良のものでした。

裁判官は、控訴人の人証の申し出を全て採用し、特に妻のBさんの病状に関する医師の証言を重視している意向であることがわかりました。これにより、控訴審での攻守は、完全に逆転し、被控訴人側が守勢となりました。

 

(11)控訴人側申請の証人調べと控訴審の結審

 

第3回口頭弁論は、同年9月にひらかれ、控訴人申出の妻Bさんの担当医師、Bさんの二人の証人の証言と、Aさんの本人尋問が行われました。Bさんは証人として証言終了後、法廷の外の廊下で発作を起こし、証言を終えて待機していた担当医師に治療をうけました。そして、同年10月下旬に開かれた第4回口頭弁論で、控訴人も、被控訴人も結審を予想して結審することに双方反対しませんでしたが、裁判官は、被控訴人に控訴人側の主張への反論を求め、次回口頭弁論が12月上旬に決まりました。

私は、裁判官が判決を書く時間を稼ぐために、もう1回期日を入れたように思えました。控訴棄却の判決ならば、すぐに結審しても、判決には時間は要らないはずですから、

逆転判決を合議できめるための時間、及び被控訴人に十分な反論の機会を与えたという場としてもう1回期日がはいり、逆転判決へ大きく前進したと判断していました。

 同年12月上旬の第5回口頭弁論で、控訴審は結審し、判決言い渡しは2007年2月22日に決まりました。

 

(12)控訴審判決を前にして

 

 妻のBさんの病状は安定せず、入退院を繰り返し、控訴審の約1年の期間中に、6回ほど薬を全部飲んで自殺未遂を繰り返していました。Bさんは、「自分が死んだら裁判も、なにもかも意味が無くなることは十分わかっているが、苦しくなると、自分のせいで夫がこんなに苦しめたという自責の念が強くなり、自分が死ねば、夫が自分から解放されて自由になれると考えてしまう。」とそのときの気持ちを後に裁判で証言しました。

 

控訴審の段階から、Bさんが大村に引っ越し、大村入国管理センターに収容中のAさんの面会にたびたびきてくれたキリスト教の牧師さんやその信徒の人々が、AさんとBさん夫妻を支援してくれるようになりました。控訴審の進行は、攻守が逆転し、控訴人有利に進んでおり、逆転勝訴も可能と考えていましたが、一方、Bさんの病気の悪化や不安定さは、Bさんが死亡、あるいはAさんとの夫婦関係が破綻してしまうとその前提が成り立たなくなるという「爆弾」を抱えていました。その意味で、私は、控訴審判決の日に、AさんとBさんが法廷に現れることができれば、半分以上勝訴したことになると思っていました。

 

(13) マスコミの無関心

 

マスコミは、この裁判について、1審敗訴判決後に記者会見をして、一部報道した以外は、全く事前取材はありませんでした。Bさんの病気のことや二人の今後を考えると、マスコミに連絡せずに済ませようかとも考えました。しかし、仮に逆転勝訴すると、必ずマスコミは報道してくることが予測され、夫婦のプライバシーを守るためや、最高裁への上告を断念させるうえからも、判決の1週間ほど前に、福岡地方裁判所司法記者クラブにFAXで、夫婦の名前を匿名とし、妻の病名は伏せてもらうことを条件として取材要請しました。  しかし、連絡先として明記していた弁護士には、判決前日になっても1社の記者からの問い合わせもありませんでした。このとき、弁護士は9割以上の確率で敗訴判決を覚悟していました。私も、不安になりましたが、その日の夕方、朝日新聞記者から私に問い合わせがあり、裁判所に事前取材して敗訴の感触を得て連絡してこなかったのではなく、この裁判への予備知識が全くなく、原審敗訴していることもあり逆転勝訴判決がありうるという予想をしておらず単に関心が無いためということがわかりました。私は、逆転勝訴の可能性が強いという思いで判決の日を迎えました。

 

(14)逆転勝訴判決が言い渡される。

 2007年2月22日(木曜日)午後1時10分に、福岡高等裁判所502法廷で、ナイジェリア人夫の退去強制令書発付処分取消訴訟控訴審判決公判がひらかれ、福岡高等裁判所第一民事部 (丸 山 昌 一裁判長)は、「主文  1、原判決を取り消す。2、被控訴人、福岡入国管理局長が平成17年3月15日付けで控訴人に対してした出入国管理及び難民民定法49条1項に基づく控訴人の異議の申出は、理由がない旨の裁決は取り消す。3、被控訴人福岡入国管理局主任審査官が平成17年3月16日付けで控訴人に対してした退去強制令書発付処分を取り消す。4、訴訟費用は、第1、第2審とも被控訴人らの負担とする」と控訴人逆転勝訴の判決を言い渡しました。

 長崎県大村市内や長崎県内から、控訴人夫婦、その支援者、福岡県内や熊本県内各地から約20名が傍聴に集まりました。裁判長は、開廷後、判決主文を読み上げて閉廷を宣言し退出しましたので、その間3分間ほどでしたが、「原判決を取り消す」との最初の言葉を聞き、勝訴できた喜びをかみしめながら、傍聴者は静かに聞いていました。閉廷後、控訴人夫婦、控訴人代理人の大倉弁護士、支援者らで逆転勝訴の喜びを分かち合いました。
 そして、福岡県弁護士会館2階会議室で、報告集会を開きました。控訴人の代理人弁護士が、判決文を入手してその内容を解説してくれました。判決文は、A4 14ページの比較的簡単なものでした。

 

(15)国の上告断念とAさんの在留特別許可によるビザ取得

 

2月26日は、熊本、福岡、長崎県大村から5名で、最高裁への上告断念を求める要請書をもって福岡入管総務課へ提出しました。

3月9日、この日が最高裁への上告期限の日でした。この日の午前中、福岡入管審判部の職員より、控訴人の妻のBさんへ電話があり、在留特別許可によりビザを付与するとの連絡がありました。入管は最高裁への上告を断念しました。Aさんは、3月15日に福岡入管へビザの手続きに行くことになりました。

2月22日に福岡高裁で逆転勝訴判決をえて、3月9日の被控訴人(入管)の最高裁への上告断念により、在留資格を得ることになったAさんは、3月15日午前10時に、福岡入管で在留特別許可を得て、「日本人配偶者等」(在留期間 1年)の在留資格を取得しました。

 

(16) ビザ取得手続きでの入管の対応

 

 この日午前10時に福岡空港内の入管の前に行くと、入管の総務課の職員2名が待ち構えており、マスコミや支援者の方が大勢押しかけられたら困るという理由で、まっているとのことでした。この日は、長崎県大村市からAさんとその日本人妻Bさんと支援者3名の5名だけでした。

入管の職員から「審判部の部屋への入室は本人とその妻、容態の不安定な妻の付き添い1名の3名だけにしてほしい、他の方は外で待機してほしい」といわれました。

大村から来た支援者が、「中島さんが付き添ってください」と言ってくれたので、私が同行しようとしたところ、入管職員から「中島さんは入らないで下さい」といわれ、私ともう一人の支援者は2階の待合室で待機し、結局、夫妻と大村か同行した支援者が入室しました。(結局、この日の入管職員の待機は、私が同行して入室させないための待機だったようです。) 

30分後、3人が審判部の部屋から出てきて、パスポートに在留特別許可、(在留資格 日本人配偶者等、在留期間 1年  2006年3月15日 、2007年3月15日まで等 )と記載されたスタンプが押されていました。仮放免許可の際に支払った保証金の返済のための小切手を受け取り無事手続きが終わりました。

審判部の部屋に入室できた3人の話では、審判部の職員は、これまでにないほど親切丁寧に対応してくれ、退室時には、全員で「よかったね」とスタンデイングオペレーション(全員起立)で、見送ってくれたそうです。

(2年2ヶ月あまり、この夫婦に言語に絶する塗炭の苦しみを与えた張本人である入管の審判部が、この夫婦の在留特別許可の付与を共に喜ぶといような不思議な光景を、私は、収容中60日以内に在留特別許可得た外国人配偶者等ケースなど過去何度か見ています。執行機関としての入管職員の仕事と職員個人としての感情のずれがあるにしろ、その加害性への自覚の無さを示しているようで、気持ちのいいものではありません)

 

(17) 司法記者クラブでの記者会見

 

この日の午前中、入管職員から「マスコミが大勢押しかけるかもしれないので、待機していた」という言葉を聞いたこと、3月9日の入管の上告断念の連絡を記者クラブに入れていたが、どこも報道していないことから、思い付きでしたが、急遽福岡地裁の司法記者クラブを訪ね、幹事社に午後記者会見を申し込んだところ、午後2時からならOKということになりました。

福岡市内の昼食を福岡地裁の近くの中華料理で、代理人弁護士にもきてもらい、昼食を兼ねて6人で簡単な祝賀会をしました。その後、弁護士の事務所へ移動して、本日のビザ(在留資格)の取得により、残務としては、訴訟費用の入管への請求だけとなり、そのための委任状への署名など本人にしてもらいました。

 

 午後2時、福岡地裁の司法記者クラブへいくと、緊急のため数社程度の取材があればという程度しか期待していませんでしたが、RKB,FBSのテレビカメラ2台と新聞社はほぼ全社に近い記者が集まっていました。

夫婦の顔を映さず、名前を匿名にして、妻の病名も報道しないことを条件として伝え、

 2月22日の判決以降の経緯や本日在留特別許可を付与されたこと、控訴審判決が確定したことの意義を私から説明しました。また、夫婦それぞれから、在留特別許可が得られた喜びやお礼などのアピールがありました。私が、「今回の控訴審判決が、オーバーステイの外国人が逮捕後に婚姻届を提出し、同居もしていなかったケースで、高裁が婚姻の実態を認め、処分を取り消したのは全国初の事例で、画期的な意味があること、同様なケースで退去強制令書を発付され、訴訟をしているケースや、再審を申請しているケース、そして、退去強制を拒否して入管の収容施設に長期に収容され続けているケースなど数百件に関係する可能性があり、その影響や波及効果が大きい」と説明しました。

そのこともあり、記者からの質問が数多くでて、会見は30分以上に及びました。司法記者クラブの記者も今回の高裁判決の意義やその意味をようやく理解してきたようです。

 

 

(18) AさんとBさん夫婦とのお別れ

 

 会見を終えて、約2年間、地裁や高裁での裁判のため通い続けた福岡地裁の玄関近く駐車場で、AさんとBさん夫妻に、「残務整理は、弁護士に直接連絡してもらえばよいこと、また、何か困った時に私に電話してもらってよいが、私とはこの問題に関してこれで終わり、お別れになる。この2年間何度も絶望的な状況に陥ったが、あきらめずいっしょに闘い、最終的に最良の形で解決に至った貴重な体験をさせてもらったことに感謝している」と述べて、別れました。

 思い出せば、 原審の福岡地裁では、原告本人は大村入国管理センターに収容され出席できず、代理人の弁護士一人、傍聴者がその妻と支援の私一人という法廷がしばしばありました。控訴審では、支援者もやや増え、傍聴者も10数名になりましたが、それは弱体でした。結果的に、最小の支援体制と最小のコストで、最大の成果を挙げるという体験ができました。

 

三、なぜ、逆転勝訴でき、在留特別許可を得ることができたのか

 

1  はじめに

 

このケースは、運動面でも、外国人が原告となる、それも退去強制令書発付処分を取消を求める訴訟で、「裁判で闘っても勝つことはない」「原審で敗訴すると、高裁で逆転できない」「高裁で勝っても、国は最高裁へ上告し、最高裁で逆転される」というこれまでの「常識」を覆し、本件のケースのように、Bさん家族の支援も期待できず、大きな組織や団体の支援、マスコミの協力などが期待できない状況でも、当事者のがんばりと少数の支援体制で、司法的救済手段を通じて目的を達することができるという先例となりました。

 

 2、なぜ、逆転勝訴できたのか

 

(1) 被控訴人(入管)の処分の根拠をなくすことができたこと

 

@ 本件の原因者であったBさんの父親を、Aさんの味方にかえることができた。

 

このケースは、Bさんの父親の警察への通報さえなければ、父親の了解を得て、婚姻届を提出し、夫婦で一定期間同居生活後に、入管へ出頭し、在留特別許可を申請すればほぼ確実に「日本人配偶者等」の在留資格が、在留特別許可により付与されることになるはずでした。警察の逮捕、検察の起訴、入管の在留特別許可の不許可処分などは、すべてBさんの父親の意向どおりの展開でした。

Bさんの父親の行為は、娘への「愛情」からおこなわれており、その後父親は娘の婚姻への真剣さやAさんへの愛情の本物さがわかり、父親が意図した婚姻の阻止もAさの退去強制も実現できず、娘を不幸のどん底に陥れるおろかな行為であることに気が付き、自責の念にさいなまれていました。

福岡地方裁判所の提訴した段階でBさんの真剣な思いと訴えにより、原告であるAさんの側の証人として、証言や陳述書の提出に協力してもらえるようになりました。

 

A 原審判決は敗訴判決の論理の土台の上に逆転をめざしたこと

 

 原審の裁判官も、執行停止の決定をなかなか出さず、一時は全部停止の決定を出すのではないかと期待を抱かせましたが、結局申立から4ヵ月後にようやく送還停止のみを認める決定を行うにとどまり、結局被告の主張をうけいれ、原告敗訴の判決を言い渡しました。

 

原審福岡地裁判決( 平成17年 行ウ 第14号)  結論

「以上によれば、原告には日本人配偶者がおり、その父親とも現在良好な関係が築かれつつあること、不法残留の他に原告が本邦において犯罪などを行った事実認めるに足りる証拠はなく、原告は本邦において概ね平穏にくらしていたとうかがわれること、原告がナイジェリアに帰国した場合、病気と診断されている日本人配偶者に精神的苦痛を生じさせることなど、原告に有利に考慮される事情があるとはいえるものの、他方、原告と日本人配偶者の婚姻関係は、短期間である上、未だ同居生活を送るに至っていないこと、原告の在留状況は、必ずしも良好とは言い難いこと、原告がナイジェリアに帰国することが原告及び日本人配偶者にとって著しい不利益であるとは言い難いこと、B規約や憲法の各規定も同居生活等を不可能あるいは困難にするような行為を一切禁じたものではなく、正当な理由に基づく行為によって同居生活等が不可能あるいは困難になったとしても、それはやむを得ない事柄であるとして許容する趣旨であると解されることなどからすると、B規約等精神や趣旨を考慮しても、原告の在留特別許可を付与しなかった被告福岡入管局長の判断は、その基礎とされた重要な事実に誤認があること等により判断が社会通念に照らして妥当性を欠くことが明らかであるとはいえず、裁量権の逸脱又は濫用の違法があるとは認められない。」

 

2007年3月7日の元中国残留孤児の妻の2家族7人の退去強制令書発付処分取消訴訟控訴審の福岡高裁判決を引用して、原告側は主張していましたので、原審判決も、この論理に沿って判断評価しました。

但し、結論が敗訴になったのは、「@婚姻関係を短期間である上、未だ同居生活を送るにいたっていないこと、A原告の在留状況を必ずしも良好と言いがたいこと B原告がナイジェリアに帰国することが原告と日本人配偶者にとって著しい不利益であるとは言いがたい」と評価して、被告の処分は裁量権の逸脱や濫用とならないと結論づけたためでした。

控訴審で逆転勝訴するためには、この原判決の@からBの評価を覆す必要がありました。

 

B 原審敗訴後に、Aさんの仮放免許可が認めさせることができ、夫婦の同居や、控訴人Aさんが、控訴審の法廷に出席できるようになったこと、

 

原審判決後に、大村入国管理センターで3回目の仮放免申請で、Aさんの仮放免を認めさせることができ、AさんとBさんが夫婦として同居し、裁判所の裁判官の前で二人の愛情に満ちた様子を示すことができました。この結果、二人の婚姻が真摯な愛情に基づき、夫婦として実態があること現実のものとして示すことができました。つまり、裁決処分前に、婚姻期間は短く、同居がしていなくとも、二人の婚姻が真摯なものであり、二人には夫婦の実態があること裁判官にわからせることができました。

 

C、Aさんの在留状況は、約3年半の「不法滞在」のみで、他に違法行為が無く、他の多くの在留特別許可の付与されたものと変わらないことを統計的にも示すことができました。

 

D、 原審の後半から、控訴審の審理中も、妻であるBさんの病気が進行し、自殺未遂を繰り返すようになり、その現実をありのままに裁判官へ訴えました。そして、裁判官、控訴人申請の証人2名(Bさんとその担当医師)を採用して調べることになりました。その結果、医師の証言からも、Bさんがナイジェリアへ行くことは不可能で危険を伴うこと、Aさんの退去強制は、二人に婚姻関係を破綻に追い込むことになることが明らかになりました。

 

控訴審で裁判官が、控訴人側の立証方針通りの証拠調べを採用して行った結果、被控訴人は、当初の「早期の結審を求める」という強気の姿勢から、控訴人側の主張や事情は、処分時ではなく「処分後」に生じた事情に過ぎないとする「処分時」説(行政行為の違法性を判断するのは、処分時であるとする説で、行政法の通説や判例として確定している。)を持ち出して防戦するしかなくなりました。

裁判官の心証は、二人の婚姻が真摯な愛情に満ちたものであること、夫婦の実態があること、もしAさんを退去強制すれば、妻であるBさんに重大な不利益を与えることを認め、原判決を取り消し、逆転勝訴に導く方向となっていることは感じられました。

 

E  被控訴人の違法性の判断の基準は、「処分時」であるという処分時説への反論

 

後は被控訴人の『処分時』説という形式論理をどのようにクリアーするかでした。控訴人側の主張として、『裁決処分時』に二人の婚姻関係は実態があり、真摯な愛情に満ちたものであったこと、被控訴人が予断と偏見がなく調査していれば、Aさんの退去強制がBさんの健康状態やその後の影響を十分予測できたはずであること、裁決時そのものが、被控訴人の予断と偏見から以上に早められており、被控訴人は二人の婚姻関係やBさんへの影響について十分な調査を怠って処分していると反論しました。

 

2007年2月22日の福岡高裁の控訴審判決は、

 ア  婚姻期間が短く、同居していなかったとしても必ずしも保護に値しない婚姻ということができないこと、本件については、裁決処分時に真摯な愛情に満ちたものであること、夫婦の実態があることを認めて保護すべきものと評価しました。

 イ Aさんの 在留状況は必ずしも不良とまではいえないと評価しました。

 ウ Aさんの退去強制がなされると、Aさんに著しい不利益を与えるものではないが、Bさんにとって二人の婚姻関係を破綻させる著しい不利益を与えると評価しましたその上で、本件裁決処分は、その裁量権を逸脱し、濫用する違法な処分であることを認め、原判決を取り消す決定をしました。

 

控訴審判決の判決文は、A4 14枚という量も少なく、その論理も至ってシンプルなものでした。

 

3、なぜ、被控訴人は上告断念したのか

控訴審判決は、原審判決同様に「本件裁決は、控訴人と妻の婚姻関係の実体についての評価において明白な合理性欠くものであり、また、前記のとおり、在留関係についても相当の配慮をすべきことが求められる両名の真摯な婚姻関係に保護を与えないものとなるのであって、社会通念にてらして著しく妥当性を欠くものであるから、裁量権の範囲を逸脱し、又はこれを濫用した違法があるというべきである。」と判断して、最高裁判所 昭和53年10月4日大法廷判決(民集32巻7号 1223頁) という判例の枠組みの中で判断しています。

 

※最高裁判所 昭和53年10月4日大法廷判決(民集32巻7号 1223頁)

「もっとも、その裁量権の内容は、全く無制約なものとは解されず、法務大臣の判断が裁量権行使としてされたものであることを前提として、その判断の基礎とされた重要な事実に誤認があることなどによりその判断が全くの事実の基礎を欠く場合や、事実に対する評価が明白に合理性を欠くこと等によりその判断が社会通念に照らして著しく妥当性を欠くことが明らかである場合には、法務大臣の判断が裁量権の範囲を超え又その濫用があったものとして違法になるものと解される」

 

従って、民事訴訟法で規定されている最高裁判所への上告事由「憲法違反又は重大な手続き違反がある場合」や、最高裁判所への上告受理申し立てが受理されえる「最高裁判所の判例と相反する判断がある事件やその他法令の解釈に関する重要な事項を含む事件に限られる」に該当せず、被控訴人にとって上告は困難と思われます。但し、被控訴人にとって、控訴審判決が確定すると、本件控訴人にとどまらず、同様な事情を抱える多数の外国人に波及することが考えられ、その影響の大きさを考慮して上告してくる可能性も否定できませんでした。

しかしながら、結局、被控訴人は、2007年3月9日最高裁への上告期限の日に上告を断念し、Aさんに在留特別許可により在留資格を与えると連絡してきました。そして、この控訴審判決が確定しました。

控訴審での被控訴人の第4準備書面の中で、この判決と同様に控訴人側が逆転勝訴した2005年3月7日の福岡高裁での元中国残留孤児の妻の娘2家族7人の退去強制事件で、被控訴人が最高裁へ上告しなかった理由を、次のように述べていました。

 

「しかしながら最高裁判所に上告することができるのは、憲法違反又は重大な手続き違反(民事訴訟法312条1項、2項)がある場合に限られており、また、最高裁判所への上告受理申し立てが受理され得るのは、最高裁判所の判例と相反する判断がある事件その他の法令の解釈に関する重要な事項を含む事件に限られている。(民事訴訟法318条1項)ところ、上記福岡高裁平成17年3月7日判決については、上記各事由が認められなかったことから、被控訴人らは上告及び上告受理申立てを行わなかっただけである。」

 

以上の被控訴人の主張から明らかなように、被控訴人が上告を断念した最大の理由は、控訴審判決の論理やその理由から、上告や上告受理申し立てをおこなっても、最高裁で民事訴訟法上の上告や、上告受理理由と認められず、敗訴する可能性が高いと判断したからと思われます。結局、控訴審判決は、原判決引用の最高裁判決の論理の枠組みで判決しており、原判決の決定を取り消したのは、あくまで事実認定に関する評価を変えただけであるため、上告や上告受理の理由とならないと判断されたためと思われます。

以上は、法律論からの上告断念理由ですが、その上で、政治的な理由として、最高裁へ上告して棄却され、最高裁判決として確定されるリスクを負うよりも、上告断念して、高裁判決として確定させた方が、影響を少なくできるという判断が働いたためと思われます。

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