コムスタカ結成30周年記念講演会
「多文化共生社会をめざして〜こんな社会で生きたいな こんな社会を作りたいな、つくろうよ」(講師 辛淑玉さん) 報告
岡崎 民 (コムスタカー外国人と共に生きる会事務局)
2015年10月4日、コムスタカ結成30周年記念講演として、のりこえネット共同代表で、在日コリアンの辛淑玉さんを講演者としてお招きした。演目は「多文化共生社会をめざして〜こんな社会で生きたいな こんな社会を作りたいな、つくろうよ」。在日コリアンとしての視点から、ヘイトスピーチ問題など今の外国人移住者への差別の問題や、これから目指すべき社会について考える契機となる講演だった。
コムスタカが辛さんをお招きして講演を行うのは、これが3度目である。4年半前の2011年5月にお招きした際には、東日本大震災における外国人被災者や、大震災に対する在日コリアンの複雑な心境について語られた。そして今年2015年、ヘイトスピーチ問題や、国際的な問題となっている移民・難民に関する問題が、講演内容の焦点のひとつになった。ひと言で「日本における外国人の問題」と言っても、それは刻々と変化しているということが、辛さんの講演内容からも実感した。
まず、最近辛さんが視察してきたというドイツでのエピソードから始まった。ドイツで行われている外国人向けの、いわば「ドイツ語検定」の1級試験の口述試験の内容に驚いた。「東西冷戦時に、あなたの所属する国はどちらの陣営に入り、その結果現在どうなったか、そしてそれがあなたにどう影響したか述べよ。」という問題が出されたのだという。口述試験だから、述べた内容に対して質問も出される。それが出来ることが、ドイツ社会で生きていくために必要な語学力があるということなのだ。つまり、「私はこう思う」と主張出来るようになること、自らの意思を言葉に出来ることがドイツで生きていくためには必要なのだ。
また、ドイツでは、権力者は徹底的に批判されるべきものであるという。そして、その役割の多くを担うのは報道機関であるはずだ。勿論、日本でも報道によって国家権力は常に批判にさらされてきた。しかし、他方、日本においては中道右派・新自由主義寄りという、現在の政権に近い論調の全国紙が販売数で常に業界トップであるし、最も中立な報道機関であるべきNHKの会長が「政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない」「(NHKの姿勢が)日本政府とかけ離れたものであってはならない」と述べたこともある。特に後者のNHK会長の発言は、私の感覚では、報道機関としての思考停止とか自殺行為に近いと感じるが、他の報道機関がこの発言を憂慮すべきものとして大きく取り上げた印象はない。報道は国家権力を批判すべきものという認識は、国民にも、一部の報道機関自身にも根付いていないということだろうか。
積極的に移民を受け容れているドイツに押し寄せる移民の中には、ユダヤ人もいるそうだ。言うまでもなく、70年前のドイツ社会はユダヤ人にとって、その生存を否定される場であった。しかしその民族の記憶がいまだ鮮明であるはずのユダヤ人たちが、「今のドイツなら安心できる」と移ってくるのだという。日本に置き換えると、植民地時代の記憶も生生しい韓国・朝鮮人が「日本なら安心できる」と移り住んでくることに等しい。しかし、在日コリアンである辛さんによれば、経済力のある在日コリアンの家庭の子どもの大半は海外に出て行ったという。「旧植民地出身で、今でも憎しみのターゲットである在日が、子どもを日本社会で育てることは困難」なのだ。確かに、在日コリアンやアジア系の外国人に対する日本人の差別意識は根強く、ヘイトスピーチの跋扈に象徴されるように、ここ数年はむしろ差別が増幅されている気すらする。インターネット上のニュース記事に対して一般市民がコメントを投稿できるのは今や当たり前になっているが、犯罪や社会保障給付の不正受給の記事が掲載されると、犯人が在日コリアンや中国人であると決めつけたコメントが驚くほどたくさん寄せられる。そして、日本各地で「朝鮮人を殺せ」と叫ぶ集団が堂々と都市を練り歩く。その光景に日本人の私ですら背筋の凍る思いがするのだから、当事者である日本在住の外国人の戦慄は、いかばかりかと思う。
また、ドイツにおけるエピソードで興味深かった事のひとつが、ドイツで売られていたというあるポストカードの内容である。そこには「お前の宗教はユダヤから。お前の車は日本から。お前のカレーはインドから。お前のデモクラシーはギリシャから。お前のコーヒーはブラジルから。で、お前は隣りの人間をただの外国人と言うのか」という内容が書かれていたという。そして、驚くべきことに、このポストカードを販売しているのはドイツの観光局、つまり公的機関である。ドイツでも、ネオナチと呼ばれる極右集団が蔓延し始めて久しい。そのネオナチに対して、公的機関が「この国でそんなことは許されない」と率先してアピールしているのである。さすがに「戦う民主制」の国であると感服した。また、ネオナチや「ペギーダ」と呼ばれる反イスラムの極右団体に対抗する市民のデモに公務員が率先して参加することも珍しくないとのことである。公務員の政治的活動に対して不寛容な日本ではあまり見られない光景だろう。しかし、辛さんいわく「公務員は中立であるべきですか?いえ、公務員は弱者の立場であるべきではないですか」。
さて、辛さんの講演の中で印象的だった言葉の1つが「全てのものに意味があり無駄なものなどない」という言葉だ。その言葉を体現するかのようなエピソードが、世界最強といわれるニュージーランドのラグビーチーム「オールブラックス」にある。オールブラックスには、かつて片腕のない選手が在籍していた。この選手のユニフォームの片袖は、当然空いている。腕が通されていない袖は、考えようによっては、役に立たない部分である。しかしオールブラックスでは点を入れる度に、選手たちがこの片腕の選手のもとに駆け寄り、その腕が通っていない方の袖で汗をぬぐう仕草をしていたそうである。つまり、空いている袖は無駄ではない。他の選手の汗を拭くためにあり、そこにいる他の選手たちと共にある、ということを観る人に知らしめていたのである。障害の部分を敢えて晒すようでもあり、日本人には考え付かないパフォーマンスかもしれない。しかし、私はこのエピソードを興味深く感じた。世界一強いと言われるチームが、片腕のない選手を隅に押しやらず、むしろその個性を強調する。ニュージーランドの子どもたちは、多様性を認め無駄なものなどないことを教えてくれる選手たちに、さぞ勇気をもらったことだろうと思う。オールブラックスの強さは、多様性を認めたことにあるのかもしれない。そういえば、この秋に躍進したラグビー日本代表チームの中には、明らかに日本人でない選手が相当数いた。彼らの中には、国籍は外国籍のままの選手もいるという。「日本国籍を有する者」にこだわらなかったことに躍進の秘訣があったのだろうか?「強い」ことが良いことだとは必ずしも思わない。しかし、現在の政権が「強い日本」に戻ることを目指すなら、日本に住む人の多様性を認めることがその近道ではないかと思う。
「多様性を認める」と簡単に書いたが、認められるべきマイノリティに属する人の中には、その個性を名乗り出ることが困難な人もいることを忘れてはならないと思う。この夏、安保関連法案に反対するデモや集会が各地で起きた。このデモの中では、「有権者の声を聞け」とか「国民主権」などの言葉が飛び交っていた。しかし、多くの在日コリアンにとっては、むしろ惨い言葉に聞こえたという。辛さんいわく「何故なら、在日コリアンは日本に生まれながら、憲法で保障されている基本的人権さえ享受できなかった」からだ。確かに、選挙権すらない彼らにとって「有権者の声を聞け」等という言葉は空々しく聞こえただろう。そして、反対デモに対して、危険すら覚えたという。これは、安保関連法案について「賛成」「反対」の二極でしか捉えていない私には、足元をすくわれる思いだった。「反対」を唱える声すら危険に感じる人々がいるということに、想像力が及んでいなかったのである。
しかし、辛さんは「でもやっぱり出ていかなくてはだめなんです。在日がいるんだよ、違う個性を持った人間がいるんだよ、と姿を見せなくてはだめなんです」と言う。それは、誰にでも出来ることではないかもしれない。しかし、私たちひとり一人が、隠れた弱者が存在するかもしれないと想像力を働かせることができれば、彼らが声を上げやすくなるのではないだろうか。コムスタカの活動は、立場の弱い人が声を上げやすくなる社会をつくることではないか、と感じた講演だった。
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