相談事例

コムスタカ―外国人と共に生きる会


国際結婚の破綻

日本人配偶者から離婚訴訟を提訴された外国人配偶者

現在、コムスタカへの相談事例で、日本人配偶者から離婚訴訟を外国人配偶者が提訴されてから相談にきて係争中のケースが2例あります。

ペルー人Aさんケース

在留資格のないペルー人男性Aさんと日本人女性は1996年に婚姻し、入管に出頭し約1年かかって在留特別許可を取得し、その間に子どもが生まれました。その後、夫婦関係が悪化し1998年夏ごろから別居となり、1999年に日本人妻が家裁での調停もへずに地裁へ離婚訴訟を提訴しました。このケースは、在留特別許可の申請から取得まで,1年以上コムスタカで支援したケースでしたから、、入管行政の壁に挑んで日本で夫婦として同居を勝ち取ろうとする二人の婚姻意思の固さと強い愛情によって結ばれたカップルと思えました。ところが、離婚訴訟では日本人妻は、「被告(Aさん)は、当初からビザ取得のため原告(妻)をだまし続け、錯誤によって婚姻した、被告(Aさん)には金銭感覚がない、侮辱的な言動をした、モラルがない」など一方的に被害者としての主張を訴状で展開してきました。また、Aさんの在留資格の更新にも一切協力しようとせず、子どもにも1ヶ月に1回1時間のみしか合わせようとしませんでした。Aさんが、コムスタカに相談にこなければ,再び在留資格をうしない、裁判でも一方的に敗訴して帰国を余儀なくされる所でした。Aさんは、家裁で夫婦関係円満調整の調停と子の面接を求める調停を申し立て、毎月1回2時間子どもとの面接が定期的にできる合意が成立しました。また、離婚訴訟には、Aさんにもコムスタカの協力弁護士を依頼し、Aさん側の証人として,コムスタカから中島を証人として採用してもらい、二人の経過を事実に基づいて証言しました。この訴訟は、昨年12月に判決が言い渡しとなり、裁判官は、「原告(妻)の主張は、これまでの経過から照らして原告が当時からそのような認識もっていたとは考えられず、被告(Aさん)との離婚を決意してから自らを正当化するために被告の言動の一部をとらえてそう表現し、その全ての責任を被告に押しつけようとしている結果に過ぎないもので、到底採用の限りではない」として斥けAさんの勝訴判決となりました。しかし、妻は福岡高裁に控訴したため、この判決は確定せず福岡高裁で控訴審が行われます。

フイリピン人Bさんのケース

 婚姻後半年ほどで、フイリピン人Bさんを残して日本人夫が日本人女性と失踪し、行方不明となっていましたが、その1年半後の1998年に夫がBさんを相手に離婚訴訟を地裁に提訴してきました。Bさんは、夫が行方不明の間のビザ更新のため、夫の住民票を同じ住所となるように移動して、ビザ更新を行っていました。夫は,入管へ通報し、またそのことを主な理由として離婚の主張をしてきました。Bさんからの相談を受け、身元保証人を夫からコムスタカの会員が引き受け,入管に事情を話しビザ更新を行い、弁護士を紹介して離婚訴訟に対抗しました。1999年2月に地裁で「婚姻関係は破綻しておらず,仮に破綻しているとしても有責事由夫からの離婚請求は認められない」として、夫の離婚請求を棄却するBさん勝訴の判決を言い渡しました。夫はこの判決を不服として福岡高裁へ控訴しました。高裁での審理は,2回(夫の本人尋問のみ)行われ同年7月結審しました。9月の判決は、予想に反してBさんの側にも婚姻関係が破綻した有責性が認められるとして、夫からの離婚の請求を認める逆転敗訴となりました。この判決は、「日本人女性の愛人と失踪した夫の有責性は認めていますが、学費を返還するため婚姻期間中にホステスのバイトをしていたこと、失踪後のビザ更新に偽造書類を作成したことはビザ目的の婚姻を疑わせる」ことを理由としています。この高裁判決は、事実認定を故意にねじまげ、Bさんは日本で働くために結婚しているという偏見と差別に満ちたものでした。Bさんは1999年9月に最高裁判所に上告し、現在も係争中です。

 Aさんは、日本人妻との間に子どもが一人いますが日本人妻が養育しているため,離婚は在留資格の喪失を意味します。また、Bさんも、日本人夫と間に子どもがなく,婚姻期間も短いため、離婚の成立は,在留資格の喪失を意味します。一方,日本人配偶者は、外国人配偶者との結婚が,婚姻の意思があって偽装結婚でもなかったにもかかわらず、ビザ目的での婚姻であったと主張し、もしコムスタカが支援にかかわって外国人配偶者の主張を代弁できる弁護士を紹介したり支援して言なければ、裁判所も日本人配偶者の主張を聞き入れやすく,外国人配偶者はきわめて不利に置かれているのが現状です。

日比国際児の認知・養育費の取組み報告
中島真一郎

日比国際児問題とは、日本人男性とフイリピン女性の間に生まれて、日本に住所や居所もなくフイリピンで暮らし、日本人父親に対して子としての認知または養育費の請求の相談です。但し、日本に住所や居所のあるケースは,基本的に日本人の相談や在留外国籍住民の相談とかわりませんので、ここには含めていません。

日比国際児問題には、コムスタカとして1993年4月以来これまで26件(バテイスセンターから24件、コムスタカへの直接依頼2件)の相談を受けて取り組んできました。解決事例15件(認知訴訟中の和解によるもの1件、調停によるもの3件、任意交渉による9件)、進展中5件 (認知訴訟中 1件  調停中 1件 調停準備中 1件 交渉中  2件 )未解決事例6件(相手男性の所在不明で進展なし4件、依頼人の取り下げ2件 )です。

日比国際児問題は、今年4件(九州外での2件を含む)の新規依頼がバテイスセンターよりありました。2000年1月から2001年2月現在新たな解決事例は2件でした。(母子の来日なしで調停が成立できた初めての事例を含む)しかし、九州外在住の男性で任意交渉で解決ができず未解決事例となっていた3ケース(フイリピンで婚姻届けがだされているが、日本での婚姻届が提出されなかったケース)についても東京地裁への子の認知訴訟、横浜家裁への子の認知と養育費の調停申立をおこない、千葉家裁へ養育費の調停申立を行いました。九州内の2つのケースについては、鹿児島県内と佐賀県内でしたから鹿児島のATLAS、福岡のアジアに生きる会に担当してもらって,いて男性と交渉中です。

九州外ということで、未解決事例となっていた岡山県内在住の父親のケースは、2001年1月15日に東京地裁に認知訴訟を提訴しました。認知は家事審判事項として家裁での調停をへてから提訴するのが原則ですが、「日本に住所のない日比国際児の認知訴訟の裁判管轄が東京地裁とされ調停前置とされると二重の負担を強いられることと、相手男性との交渉経緯から調停での出席も望めないこと」を理由とする陳述書をつけて岡山家裁での調停をへないで提訴しました。そして、東京地裁は調停前置主義の例外として、これを認め第一回公判が2月下旬に行われました。(これまで日本に住所のない日比国際児の認知訴訟は、福岡地裁、札幌地裁と大分地裁へ提訴された例がありますが,家裁での調停申立がなされたあとでの提訴でしたが、調停なしの提訴が認められた初めてのケースと思います。)

また、これまで任意交渉や調停で解決できた養育費の支払い合意が果たされず、未払いが続いていた1ケースについて、相手男性名義の不動産の差し押さえを行い、確保することができました。また、同様に未払いが続く1ケースについて、賃金の差し押さえを行いました。このように、九州外に在住でこれまで諦めざるを得なかったケースについても、任意交渉以外に調停や認知訴訟という手段を行使することができるようになったこと、及び合意解決後の養育費の未払い者にたいしても差し押さえ等の法的強制手段を使って確保できる事例をつくることができました。

中国人花嫁斡旋による結婚と破綻の事例

一九七五年以降、多くの男女を農村から都会へと流出させた高度経済成長が一段落したころ農村の花嫁不足が深刻となった。また女性の地位向上で結婚が女性にとってもはや唯一の選択肢ではなくなると都市でも結婚できない男性が問題となった。この農村の嫁不足、都市男性の結婚難を背景に近隣諸国に解決策を見いだそうと台湾や韓国、フィリピンなどへ見合いツアーが企画されるようになった。今では国際結婚斡旋業者のホームページにアクセスすればズラリとならんだ花嫁候補の顔写真とプロフィールを見ることができる。

しかし国際結婚とはいうものの斡旋サイト上の六十業者のうち中国女性紹介が三十、フィリピン女性が十一で全体の七十%を占める。また経済成長を遂げて豊かになった台湾、韓国は現在このリストからはほとんど消えている。「白人女性」紹介も十二業者あるが、相手国はロシア(「東欧を含む」が一業者)のみである。このサイトを利用して交際相手を捜そうとする日本人男性はどうやら、金の力で女性を支配しようと思っている、と考えても良さそうだ。日本の経済力を背景に(自分の経済力ではない!)女性より優位に立ちたがっている日本人男性の姿が見えてくる。

ここ熊本でも中国人女性を斡旋する業者が結婚の仲介を行っている。今までにこの業者の斡旋による十一件の結婚が確認されており、うち七件が破綻または問題を抱えた状態である。コムスタカにも三件の相談が寄せられた。長く関わったそのうちの二件はアジア人花嫁斡旋業者を利用する典型的顧客が引き起こした事例であるように思われる。

女性を労働力、子産み機械、老親の介護要員としか考えなかった農村男性とその両親

趙さん(仮名)は上海出身。日本に興味があったので興味半分お見合いをしたら、優しそうな人だったので結婚することにした、のだそうだ。斡旋業者の話では日本はどこもが都会で田舎はなく、相手は会社員で農業を手伝わされることはないということだった。しかし現実は違っていた。

言葉もほとんどわからないままに日本にやって来て朝5時には起床という慣れない農家の仕事を手伝わされた。特にすぐに妊娠してしまった彼女にとって日本の農家の食事はつらかった。みそ汁やたくあんのにおいに吐き気を催した。中華料理を食べたかったが、家の人は「日本人の妻なのだからこのご飯を食べなさい。妊娠は病気ではない。」と言うばかり。吐き気で料理もできないでいると、姑は「食事の用意をさぼる」といっては怒った。つわりで気分が悪く遅くまで寝ていると「中国人はなまけ者」と罵った。また日本語を学びたいと言うと、「なぜ日本語を勉強するのか。嫁に来たのだから家で働きなさい。仕事はたくさん子供を産むこと。年を取ったら私たちの世話をするのだ。」と言った。日本語を覚えたいと努めてテレビを見ようとすれば「皆が外で働いているのに、電気の無駄づかい。」である。なのに夫は、見知らぬ国で慣れない暮らしを始めた孤立無援の趙さんをかばうどころかまったく無関心で話し相手にもなってくれない。「夜だけは男です。でも夫じゃない。私はおじいちゃんとおばあちゃんと結婚したみたいです。」無口な夫は両親の言いなりで、趙さんと向き合うことはなかった。しかたなく趙さんは知り合った中国人によく長電話をして思いのたけをぶちまけた。しかし舅や姑にしてみれば食事が口に合わないといってすねる、気分が悪いと言っては朝寝する、叱ればふてくされる、皆が働いている時にゴロゴロとテレビを見ている、長電話はする、趙さんは生意気で身勝手な嫁であっただろう。

彼らは特別豊かなわけではない、ごく普通の農家である。でもなぜか息子に嫁が来なかった。そんな時中国人花嫁の斡旋を知る。三百万円のお金が必要らしいが、中国人の嫁はおとなしくて良く働くそうだ。中国で見合いをしたらすぐ話が決まった。嫁のために部屋も改築しシャワーもつけた。彼らは若くかわいい花嫁を迎えてどんなにか嬉しかっただろう。趙さんも念願の日本に来れたのだ。待望の跡継ぎもすぐにできた。

しかし受入の農家側の発想はいかにも単純である。近頃日本の女性はわがままになった。楽できれいな仕事はするが農業はしたがらない。自己主張ばかりで、年老いた両親と同居したがらない。それならば中国はどうだろう。人々は貧しくて皆日本に来たがっているそうだ。貧しければ文句も言わないだろう。しかしとんだ誤算である。まず、趙さんの出身地上海は都会だ。中国でも都市の女性の意識は高い。しかも文化革命以降男女の平等が地域や階層によっては日本よりはるかに進んでいる。その上、男女を問わず中国人ははっきり自分を主張する。このような決定的なずれの中で結婚は一年で破局を迎えてしまった。日本語で自分の気持ちをうまく訴えられない趙さんは事態が難しくなるとよく「じゃ、離婚する。」と口走った。これを夫側はうまく利用して協議離婚をすることに成功した。そして趙さんは親権者が夫であることの意味を十分理解していなかった。趙さんを身勝手で、わがままで、日本に来るために結婚を利用した悪い女だと考えている夫と両親は趙さんが何度訪ねても子どもに会わせてはくれなかった。思いあまって私たちの会に趙さんが来たのはこういう経緯からだった。この裁判は長く続いたが最終的には趙さんが親権を得て終結した。趙さんは今元気で働きながら子どもを育てている。

金の力で女性を支配しようとする日本人男性

楊さん(仮名)も同じ斡旋業者の仲介で結婚した上海出身の中国人女性である。楊さんが日本に憧れているのを知った友人の紹介で業者に登録をしてからほどなく、見合いの連絡が来た。待ち合わせのホテルで通訳を通して二、三言話をしただけで男性に気に入られ、返事を求められた。あまりにも突然だったので二、三日考えたかったが仲介の人はその場ですぐ決めるように言う。そして「彼はまじめで温厚で経済力もある。日本に行けば安心して暮らせ勉強もできる。こんないい機会はない。中国で日本語の勉強をしても何の役に立つのか。ここで4年学ぶのは日本で一年暮らすのには及ばない。」と説得した。それでも決めかねている楊さんに「まず結婚してみることだ。そしたら後で好きになる。ここで紹介された人は皆うまくいっている。あなたみたいに躊躇する人はいなかった。もし、あなたが決められないなら別の人に紹介する。そうすればあなたには今後チャンスがあるかどうかわからない。」と言って迫った。徐々に説得されていく楊さんの様子が目に見えるようだ。楊さんはとうとう決めてしまった。

その日から会社経営者というその男性は非常に気前よくお金を使いたくさんのプレゼントをしてくれた。日本から電話もよくかけてきて楊さんが彼にかけた電話代十四万も彼が払った。出会って一ヶ月後に中国で結婚。その直後一度だけ、斡旋業者に渡したお金が使途不明になっていることに腹をたて何も知らないと言う楊さんに突然怒り出し、バッグをひっくり返し中のお金を取りあげたことがあった。このあと男性はすぐに謝まり、弟の結婚費用を出してくれさえしたので一瞬の不安はうやむやになってしまった。しかし、これがこれからのすさまじい結婚生活の予兆だったのだ。いろいろと甘言もささやいたのだろう。日本に来ればどんなにいい生活ができるかも話して聞かせたのだろう。これは暴力を繰り返しながらもその後必ず妻に優しくする、典型的なDV男性の行動を思い起こさせる。

それから三ヶ月後楊さんは日本に来た。一週間は平穏に過ぎた。しかし中国の家が恋しくなって電話したいと言うと禁止され、家族が恋しいなら中国に帰れ、もう日本に帰ってこなくていいと言われた。また中国語を話す人と付き合ってはいけない、早く日本人なり切るようにとも言われたが日本語を習いに行くことは許されなかった。友達を作ろうとすると、自分が友達なのだから他の友達を作る必要はないと言われた。

暴力も始まった。何が気にさわったのか突然「おまえは頭が悪い、お前なんかいらないから中国へ帰れ」と怒り出す。しばらくするとあれは本気ではなかったと謝った。毛生え薬をBさんの頭に塗ったり腰痛の薬を手足に塗ったりした。錠剤を無理に飲ませようとしたので飲んだふりをして後で吐き出したこともあった。楊さんが作った食事が気にいらないといってそれを全部食べさせたりもした。メガネのつるを壊されて何度も頼んでやっと直してもらったこともあった。セックスを毎晩強要され、耐えられないこともあった。膀胱炎にかかった時も病院に行かせてもらえなかったので彼の留守にこっそり病院に行ったこともあったと言う。

ある日男性は目が疲れたので薬が飲みたいと言い出した。楊さんがすぐに動かないでいると、彼はたくさんの薬を楊さんの口に押し込み、抵抗すると怒り出し、頭を殴り、中国へ帰れと言う。怖くなった楊さんは友達のところへ逃げたが連れ戻された。2週間ぐらいして彼がまた怒り出し、ひどく殴られて身の危険を感じたので斡旋してくれた業者のところに逃げた。数時間後に男性が来て「もう、殴らないから今日はどうしても一緒に帰ってほしい。」と言う。業者も彼と一緒に帰るように言うのでしかたなく家に戻ったが殴られた傷が痛むのに病院には行かせてもらえず、「これは今までおまえのために使ったお金だ」と4百万と書かれた紙を見せらた。そして日本では夫が妻を殴るのは良くあることだとも言われた。それから6日ほどして彼の留守を待って医者へ行きそのまま友達のところへ逃げた。が、また連れ戻された。何日かたって携帯電話を隠されているのに気づいて恐くなり再度友達に連絡した。今度は相談所に保護されコムスタカが支援することになった。

支援団体が関わったことを知った男性はすぐに弁護士をやとった。コムスタカも実は男性が楊さん来日の時点ですぐ、騙して離婚届にサインさせ協議離婚の手続きをすませていたことを知った。これはで結婚ではなく人身売買である。またパスポートの入ったバッグを取り上げて燃やしていたこともわかった。初めはお金は一銭も出すつもりはないと言い張っていた男性も、暴力を振るっていた事実に加えこれらの事実も認めざるをえなくなった。そしてまたお金を払って解決する方法を選んだのだった。数ヶ月たってやっと元気を取り戻した楊さん。日本で勉強したいという彼女の願いが叶うことを祈りたい。


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