カナダ先住民研究を通じて日系カナダ人強制収容問題を考える
2012年12月2日 草本 景子
2012年夏から連日のように報道されていた中国国内での対日デモの様子と日本国内での反中感情、そしてナショナリズムの異常な高まりに、第二次世界大戦中とその後数年にわたって続いた日系カナダ人に対するカナダ政府の強制収容政策が頭をよぎった。カナダ国内では、その事実を詳しく知っている人々は少なく、カナダ国外ではほとんど知られていない歴史の一部である。
私は2008年から2011年までの約4年間、カナダのウィニペグ市(―北アメリカ大陸の“へそ”にあたる一帯で、アメリカとの国境までは車で1時間ほどのところに位置する)にあるマニトバ州立大学でカナダの先住民について学んでいた。一概にカナダ先住民と言っても、民族、言語、文化、生活習慣は多種多様であり、地域によって大きく異なる。ハリウッド映画に登場するあの“インディアン”を思い描くひとも多いだろうが、それはアメリカ中西部に暮らすいくつかの部族を融合させて脚色されたものがほとんどで、事実とは異なる。私が知っているだけでも30近い部族がおり、先住民は実に様々な文化を時には変容しながらカナダ全土で暮らしている。社会通念上、先住民はアボリジナル・ピープルズ“Aboriginal peoples” と総称され、大きく次の4つのカテゴリーに分けられる:①ファースト・ネイションズ “First Nations” ②イヌイット “Inuit” ③メティ “Métis” ④ノン・ステイタス “Non-Status”。①はイヌイット以外のカナダに暮らす先住民族、②はヌナブト準州やケベック州北部ラブラドール海岸、ノースウェスト準州に暮らしている犬ぞりで有名なイヌイット、③は先住民とヨーロッパ系移民(フランス・イギリスが多い)の子孫である。①②③は自ら政府へ自分のアイデンティーを申請し認定を受けているのに対し、④は政府に申請しなかったり正式に認定されはしないが、先住民であると自認している先住民のことを指す。①②③は、教育・福祉面での補助や特定のサービスを受けられるが、④は受けられない。
1492年のコロンブスの新大陸発見以降始まったヨーロッパ移民の大量入植と土地資源の開発、そしてカナダ建国に伴う資本主義経済の発展、農地開発、都市の拡大は、多くのカナダ先住民の土地と命を奪っていった。四季の変化に対応しながら自然と共生し狩猟・採集・漁に頼って生活してきた先住民にとって、植民地化は環境破壊、貧困、そして天然痘などの死に至る病気をもたらし文化存続の危機に発展していった。政府の定めた「インディアン条約」等により、非常に狭い居留地に移動を強いられ、それまでの文化・生活習慣は抑圧された。19世紀後半から、子どもたちは家族から引き離され、何百キロも遠く離れた教会の運営する寄宿学校でキリスト教と英語を強要された。そこでは牧師や神父、尼僧が子どもたちの指導にあたったが、実に多くの学校で、言葉をはじめ、性的虐待を含む身体的精神的虐待が行われていた。
その犠牲となった先住民に対して2008年、首相が初めて公式に謝罪をした。以降、管理運営に携わった多くのキリスト教派から謝罪が相次ぎ、現在は対策委員会による聞き取り調査がカナダ全土で実施され、虐待の犠牲者とその家族に対してどのような補償をすべきか検討中である。これら一連の出来事は、カナダ政府が先住民を教育し文明化させる責任があるという信念のもと、西洋主義的カナダ社会に同化させようという意図から端を発したものである。その根底には、先住民族は野蛮人であるという人種差別と未開の文化であるという蔑みがあり、同化政策は言わば先住民文化の虐殺(cultural genocide)であった。この影響は今もなお先住民コミュニティーに深い傷跡を残している。先住民の自殺率はカナダ国内で最も高い。また、寄宿学校や里親制度によって家族やコミュニティーはつながりをなくし、家庭内暴力や犯罪に巻き込まれるケースが多く、産業のない居留地では生活保護費に頼り社会でなかなか自立できない状況が続いている。 近年仕事をもとめて都市に移り住む先住民が増加し続けているが、都会に出てきても教育を十分に受けていなかったり、先住民だからという偏見から職につけない人々も多い。また、アルコールやドラッグ中毒に陥いってしまう人々も決して少なくはない。私が研究を経て気づいたことは、このような負のサークルは、植民地化以来カナダ社会に根強く残る人種差別、もっと言えば、カナダ建国とその発展に貢献したのはヨーロッパ移民であるという自負が白人至上主義となって、社会全体のシステムのなかに長い間組み込まれてきたということだ。例えば、先住民の囚人の割合がほかの人種よりも一段と高いというデータがでているが、実際犯罪者が多いというわけではなく、もしかしたら警察や検察、裁判官による偏見がそのような結果を招いているのではないか、と疑問視する声も上がっている。
私の研究は、そのような植民地政策と日系カナダ人に対する強制収容政策を、文学作品をとおして比較することであった。そのきっかけは、トーマス・キングというドイツ、ギリシャ、そしてチェロキー族を先祖にもつアメリカ出身カナダ在住の作家の作品「コヨーテと敵国人」(原題:Coyote
and the Enemy Aliens)である。 コヨーテはオオカミよりひとまわり小さく北米の中西部に生息する動物で、その一帯で暮らしてきた先住民族の間でいたずら好きだが決して憎まれないキャラクターとしてよく語り継がれている。一方「敵国人」とは、第二次世界大戦中とその後しばらく公に使われていた日系カナダ人の呼称である。キングはヨーロッパからの入植者によって土地と家族と文化を奪われた先住民としての立場から、日系移民に強いられた強制収容政策を植民地政策と重ね合わせながら描いている。私が取り扱ったのはどれも先住民作家と日系カナダ人作家によるものであり、キングのように、白人社会から抑圧されてきた立場としての苦闘、国・社会システムに対する批判、そして彼らにとって「土地」とはどのような意味を持ち、移民と先住民が共生するとはどういったことなのか、さらには多文化主義政策が実現される社会とはどのようなものなのか、それぞれの立場から示唆されている。
ここで、日系カナダ人の歴史と強制収容問題について触れたい。最初に日本人がカナダに渡ったのは1877年である。以降ブリティッシュ・コロンビア州(以下B.C.)のバンクーバーやフレイザー・バレーなど西海岸を中心に、1940年代まで約22,000人の日系1世、2世、3世が小売店、漁業、農業、工場などに従事しながら生活していた。1941年の真珠湾攻撃を境に、75%以上がカナダ国籍であったにもかかわらずB.C.の日系人はエネミー・エイリアン(“Enemy
Aliens”―「敵国人」)であると登録され、日本人学校、日本語新聞は廃止になり、海岸から100マイル以内に住んでいた日系移民の家族は離れ離れとなって強制退去せざるを得なかった。まず18-45歳の男子が戦時中進んでいなかったロッキー山脈一帯の道路建設へと送られ、次に女性、子ども、高齢者がバンクーバーにある家畜小屋に数か月収容された。そこでは、家畜の悪臭と不衛生な環境の中8,000人がおり、病気と栄養失調で死に至る者も少なくなかった。その後は、廃坑などで無人化していた内陸部の町々にそれぞれ移住させられた。またその中には、一家が離れ離れにならない選択肢 ―気候のきびしいアルバータ、サスカチュワン、マニトバ州の荒地開拓という非常に過酷な労働条件―)を得た人々もいた。その間に漁船や農地、財産、不動産は一時的という条件で没収されたが、のちに市場価格の半値以下で政府関係者らによって売りはらわれた。
ところで、強制収容政策に関して大きな疑問がひとつある。収容所送りが、なぜ日本同様に連合国と対立していたドイツとイタリアからの移民に対して行われなかったのか。なぜ日系移民だけが敵国人とみなされ収容所送りになったのか、である。文献から真珠湾攻撃よりもずっと以前からB.C.一帯ではアジア系移民に対する排斥運動がすでに始まっていたということが明らかになった。1907年には、バンクーバーでアジア系移民に対する大きな暴動が起こっている。その翌年から日本人移民は年間男性を中心に400人、1928年には150人までに制限された。また、白人以外の人種には(つまりアジア人と先住民)には選挙権や漁獲権が与えられず、公職にもつくことはできなかった。19世紀後半から増加していたアジア系移民は西洋主義のカナダ社会には適応できない人種とみなされていたことも、強制収容経験者とその家族から話を聞くなかで新たにわかってきた。アジア系移民は労働の担い手として無くてはならない存在であり、ビジネスや農業の分野で成功していた日系人コミュニティーは白人社会を脅かす存在だったといえる。そこに第二次大戦が勃発し、敵国人とみなすことで、政府は強制収容をはじめとする非人道的行為を正当化した。1949年についにカナダ国民として市民権が認められたが、1988年9月22日の
「リドレス」(“Redress” ―カナダ政府が不当な行為をしたと認め、日系カナダ人に対して首相が公式に謝罪をし、賠償金・補償の交渉に臨むこと)が行われるまでにそのような迫害行為は正当化されてきたと言えるだろう。
さて、これまで植民地支配の歴史と先住民の現状、そして日系人の強制収容問題に触れてきたが、もうお気づきだろうか。人種により優劣を定め、白人以外の人種を土地から追放し、資源を奪い、家族やコミュニティーを分裂させ、人間として生活を営む権利を無視するというカナダ政府の策略パターンは、日系カナダ人に対してのみ実施されたのでなく、実は先住民の植民地支配に始まっていたのだ。そして植民地政策と強制収容政策の根源には、白人至上主義の思想があり、いまでもそれは人種差別として根付いている。1988年のリドレスを機に多文化主義政策が掲げられている。しかし未だ根絶されるには至っていない今、またいつ特定の人種や民族が排斥運動の犠牲になるかわからない。これは、もちろんカナダ社会に限ったことではない。今の日本でも同じことが考えられる。特に、現在の東アジアをめぐる緊張関係のなかで、同様な事態がおこるのではないかと私はとても危惧している。
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