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須藤眞一郎行政書士事務所気付
NPO法人 北九州サスティナビリティ研究所
研究員 織田由紀子
※本稿は、2013年9月7日平成25年度男女共同参画inパレア ワークショップ参加企画「人身売買をなくすためのシンポジウム」における報告に加筆訂正した。なお、本稿は、主には、筆者がチーフアドバイザーとして2009〜2011年、独立行政法人国際協力機構(JICA)「タイ国人身取引被害者保護・自立支援促進プロジェクト」に関わったときの知見に基づいている。
また、本稿では人身取引という言葉をつかっていますが、人身売買と同義語と考えて下さい。
タイは人身取引被害者の送出国、経由国、目的国
人身売買 に関して、各国における人身取引被害の状況や取組みを理解するために、よく「送出国」「経由国」「目的国」という言い方が使われます。むろん、国境を越えることなく国内で行われる人身取引もありますので、この分類では実態を把握できるとは言えませんが、一つの目安になるかと思います。この分類で言えば、タイは人身取引被害者の送出国であり、経由国でもあり、目的国でもあります。つまり、タイ人が海外で被害に遭っている一方で、タイ国内で被害に遭っている外国人やタイを通過して第三国に送られる被害者がいます。日本はどちらかというと目的国ですから、人身売買の被害に遭った日本人および外国人の保護をするだけですが、タイ政府は、海外で被害に遭っているタイ人からタイで被害に遭っている外国人まで、幅広い被害者の保護と訴追をしなければなりません。タイにおける人身取引対策は日本より複雑と言えます。
2008年から2012年の5年間に、タイ政府の社会開発人間安全保障省の施設で保護した人身取引の被害者数は、タイ人237人に対して外国人は2,023人ですのでタイ国政府が保護している被害者の数だけを見ると外国人の方が多くなっています。とは言えこの数字だけで、タイ人の被害者が少ないとは言えません。一般的にタイ人は政府の保護施設に入ることを好まず、海外で被害に遭って救出されて帰国した後はただちに家族や友人の家に帰るために、施設で保護されるタイ人は少ないからです。加えて、政府に保護された人たちのほとんどは、目的国で被害者と認定され外交ルートまたはNGOを通して帰国した人たちですが、この他に自力で帰ってきた被害者や帰国出来なかった人がたくさんいるからです。帰国者のなかには10年、20年と目的国に長く住んでいた後帰国した人もいます。例えば、日本に連れてこられてスナックなどで働かされている時、たまたま日本人男性と出会い、所帯をもったが、その後その男性による家庭内暴力を受けDV被害者として保護された。そしてよくよく話を聞いてみると人身取引の被害者だったことが分かったというケースもあります。このような潜在的な被害者はかなり多いと思われますので、政府の保護施設で保護された帰国者数だけでは実態を把握できないのです。
なお、米国国務省の『人身取引報告』によると、タイ政府が認定した人身取引被害者の数は、2012年は合計594人(うち外国人270人、タイ人324人)です。これは、2011年の279人(うち外国人213人、タイ人66人) と比べて総数が増えているだけでなく、タイ人の増加が顕著です。この背景には以上のようなさまざまな事情があると考えられます。
なぜ、タイに外国人の被害者が多いと言いますと、タイは、ラオス、カンボジア、ミャンマーなどのメコン地域の周辺国より経済的に豊かで仕事の機会が多いからです。さらに、地理的にも陸続きですから日本などと比べて国境を越えるのが容易です。また、歴史的にも周辺国との関係が深く昔から国境を越えた人の往来が盛んでした。
タイ国内での人身取引被害の形態は、強制労働、性的搾取、家事使用人、物乞いなどです。近年は強制労働のケースが注目を集めています。現在タイに滞在している外国人労働者はミャンマー人だけでも200万人ともいわれています。これらの移住労働者の中には人身取引の被害者が少なからず含まれていると見られています。日本のスーパーなどではよく売られている殻を除いたエビにはタイ産のものも少なくありません。しかし、最近タイ人はエビの皮むきのようないわゆる3Kの仕事にはつかなくなりましたので、ミャンマー人やラオス人などの移民を雇用しているのです。また、漁船で監禁状態におかれ何カ月も海上で漁業に従事させる事犯もしばしば報告されています。
海外で被害に遭ったタイ人の行先は、日本を含む東アジア、ヨーロッパ、米国、中東、南アフリカなどで、そこで強制労働、性的搾取、偽装結婚などの形で被害を受けています。
政策(Policy)
では、このような状況の中でタイ政府はどのような取組をしているのでしょうか。人身取引対策はよく政策(Policy)、保護(Protection)、訴追(Prosecution)、防止(Prevention)の4つのPで語られます。まずは政策(Policy)について話しましょう。端的に言って法制度、政府の取組み機関やそのシステム、保護施設についてはメコン地域の国々と比べてかなり整っていと言えます。それでも被害者の数が減っているわけではないのは課題ですが。
タイ政府は、2008年に人身取引に関する包括的な法律である「人身取引対策法」を制定し、現在はこれに基づいて取組みが行われています。むろん、2008年以前から人身取引に取組んできましたが、この法律制定以前は女性と子どもを対象にした「女性と子どもの人身取引の防止と撲滅に関する法律」(1997年)に依っておりました。2008年の人身取引対策法により、男性も人身取引の被害者として保護されるようになったことは特徴の一つです。この法律を受けて、国をあげて人身取引に取り組むための組織体制も整えられ、首相を長とする人身取引対策委員会が設置されました。また、行動計画である「人身取引防止撲滅国家戦略および施策」も策定されました。ちなみに、メコン地域のほとんどの国がこのような包括的な人身取引に関する法律と行動計画をもっていますが、日本には包括的な法律はなく関連の法律で対応しています。行動計画は、日本では2004年に策定、2009年に改訂され、現在はこれに基づいて取組んでいるところです。
タイの取組みにおけるもう一つの特徴は人身取引に取り組む専門の部署があることです。社会開発人間安全保障省の社会福祉局に人身取引対策部(BATWC)が設置されています。また、警察や検察省にも人身取引の専門組織があります。なお、日本では人身取引対策に関する関係省庁連絡会議が設置され内閣官房副長官補が議長を務めていますが、恒久的な組織ではありません。
タイには人身取引を専門的に扱う部署があるとは言え、人身取引対策ではいろいろな機関間の連携が重要です。そこでタイ政府は、各機関間の連携がスムースに行えるように、MDT(Multi-Disciplinary
Team多分野協働チーム)というアプローチを取っています。日本の政府開発援助を実施している国際協力機構(JICA)のプロジェクトは、このMDTアプローチの強化を支援するものです(詳細は後述)。また、政府の関係省庁間、国内の地域間、政府とNGO間の連携に関わる機関間の覚書(MOU)を締結されています。さらに、被害者が多いメコン地域の周辺の国々ともMOUを結んでおり、効率的な被害者の送還や保護、加害者の訴追をしています。
メコン地域の国々とのMOUがどのような効果をあげているかについて一例をあげましょう。タイで保護された外国人は、通常まず出身国に身元照会をし、再度被害に遭う環境ではないなど安全を確認して両国の間で合意した方法で帰国します。また、加害者に関する情報を得て、訴追や損害賠償のための法的手続きを取ります。そのためには被害者から被害の状況に関する詳細で正確な情報を得ることが大切です。被害者は通常タイ語ができないのでこれらの情報収集は通訳を通して行われますが、通訳を通したのではなかなか細かい話が伝わりません。またタイの警察に関する不信感を植え付けられており情報を話さない被害者も少なくありません。このため被害者の身元確認に時間がかかり、長くタイの保護施設に留め置かれることになり被害者にとっても苦痛が大きく問題になっています。被害者からの情報をどう収集するかは長い間被害者保護の課題でした。そこでタイとミャンマーの間で結ばれたMOUに基づき、ミャンマーのソーシャルワーカーがタイのシェルターに保護されているミャンマー人に直接面談して身元確認に必要な情報や加害者情報を得られるようにしたのです。これによりミャンマー人被害者の身元確認が容易になり、早く帰国できるようになりました。これは日本に置き換えて考えてみると、日本の公的施設に外国のソーシャルワーカーが来て面談するということになります。果たして日本では許可されるでしょうか。タイの対応はかなり大らかと言えます。これはタイとミャンマーが信頼関係を築き上げてきた成果なのです。MOUでは他にも、身元確認が難しいケースの送還や送還手続きの簡略化、帰国後のフォローアップなど実務的な取り決めがなされています。
保護(protection)
保護(protection)については、まず、タイでは公営の保護施設がかなり充実しているという特徴があります。日本では各県の婦人相談所が人身取引被害者の保護施設と指定され、またNGOのシェルターも利用されていますが、タイにも日本の婦人相談所のようなあらゆる問題を抱えた人が入れる家族と子どものための保護施設(短期シェルター)が各県(76県)にあり、人身取引被害者もそこで一時的に保護されます。そのほかに、人身取引の被害者専用の長期シェルターが全国に9つありそのうち4つは男性用のシェルターです。ちなみに日本には男性の施設はありません。被害者はまず安全を確保するため、保護された近くの短期シェルターにかくまわれた後、身元確認まで時間を要する場合長期シェルターに移されます。
タイで最も大規模な長期シェルターは、バンコク近郊にある女性と女児用の保護施設で、約500人の被害者を受け入れることができ、常時200〜300人のタイ人および外国人被害者が滞在しています。外国人の場合は身元が確認されるまでの間、時には1年以上かかることがありますが、全てタイ政府の資金で滞在しています。タイでも外国人のために何故そこまでお金を使うのかとの批判があることもあるらしいのですが、人身取引は深刻な人権侵害なのでその被害者は保護されるべきことを説明しているとのことです。
その他に、「TIP基金」という被害者に直接金銭的支援をする政府の基金があります。特に、加害者を訴追する場合は判決まで時間がかかります。その間の被害者の生活を支援します。また、多くの帰国したタイ人被害者は落ち着いたら先ずは家族や自分の経済的な問題を解決しなければなりません。そこで起業資金などの金銭的支援をTIP基金に申請することもできます。
また、政府は24時間サービスのホットライン全国共通番号1300を設置しています。この電話は各県の家族と子ども保護施設で受けていることから、人身取引被害も含むあらゆる問題を相談することができ、必要に応じて一時保護も受けられます。
JICA MDT強化プロジェクト
ここでJICAの「タイ国人身取引被害者保護・自立支援促進プロジェクト」のことをもう少し詳しくお話ししましょう。このMDT(多分野協働チーム)は、前述のように人身取引被害者保護のためにタイ政府が採用している人身取引対策のアプローチの一つで、関係者が連携して被害者の保護および自立支援に取組むというものです。JICAのプロジェクトではこのMDTの強化を支援しています。この強化を通じて最終的には被害者の保護や人権回復、被害者の自立を促進することを目的としています。対象地域は、バンコク首都圏の他、出稼ぎが多く人身取引の被害者になる危険が多い北部のパヤオ県と国境があるため人の移動が多い同じく北部のチェンライ県です。
MDTでは関係機関の連携をどう作りあげていくかが課題です。日本でもそうですが、タイでも省庁間の協働を作り上げることは容易ではありません。そこで人身取引対策部が調整役を担い、関係する外務省、保健省、労働省、検察、警察等の他、弁護士、NGOなども加わってチームとして動けるように協働の基盤を構築しようというのがプロジェクトの狙いです。なお、特筆すべきことは、MDTでは、NGOもパートナーとして位置づけられており、政府機関と同じ立場で参加していることです。
ところで保護の過程は保護施設に入所したときから始まるのではないことに注意が必要です。タイのプロジェクトでは、保護の過程は、情報の受け取りから始まり、救出、被害者認定、シェルターでの保護、訴追・損害賠償請求、自立までの長いプロセスを含むと定義されています。人身取引被害者ではないかという情報は、NGOに多く寄せられますので政府の関係機関と連携しながら救出の準備をします。救出の場面では、日本同様、警察や入管が主になりますが、タイではMDTアプローチをとっていますので必要に応じて救出当初からソーシャルワーカーが同行します。むろん通訳も必要です。ソーシャルワーカーなどの警察以外の資格を有する公務員が証拠品の収集を行うこともあります。人身取引取扱資格は毎年要件を満たした人に対する研修を行い、そこで認定された公務員に与えられています。また、訴追・損害賠償などのためには司法部門との協働も重要です。JICAのプロジェクトではこれらの関係者全員が、被害者保護の全プロセスに関する知識を確かなものにし、とっさの時に協力できるように研修をしたり、ガイドブックを作って知識を共有したり、ワークショップを通して協働経験を積んだりしています。
プロジェクトでは他に、被害者の自助グループ活動も後押してきました。被害者の経験を本にして共有したり組織強化の支援をしたりしました。
人身取引被害者の保護は、バンコクのような都市部だけではなく国境近くの地方の市町村でも行います。地方の警察、ソーシャルワーカー、弁護士、保健所、NGOの関係者など幅広い分野の人びとが、人身取引事例にどう対処したら良いかを熟知しており、その場で互いに協力し合うことが必要なのです。日本の地方の警察や関係者はこのような研修を受ける機会がどのくらいあるのでしょうか、気がかりです。
訴追(prosecution)
訴追(prosecution)のプロセスは警察、検察などの司法機関により行われます。実は人身取引の被害者かどうかの判定は簡単ではありません。騙されたり脅されたりしているのか、搾取目的で連れてこられたのかなどの人身取引の要件をきちんとチェックしていく必要があります。おまけに、外国人被害者の場合はタイの言葉も法律も分かりませんので、警察は保護したつもりでも本人は捕まったと思いなかなか事実を話してくれず、人身取引の被害者として認定できなかったり、加害者情報を得られなかったりするということがよくあります。そこでタイでは被害者認定のためのチェックリストを作って認定しやすいようにしています。救出にあたった警察官は、チェックリストに従って、人身取引の被害者かどうかを認定するようにしています。
タイにおいても、日本同様、被害者の数ほどには起訴件数や有罪になった加害者の数は多くはありません。米国国務省『人身取引報告』によると、下表のような変動が見られます。また、捜査件数が必ずしも起訴に結び付いていないことも窺えます。
2009 | 2010 | 2011 | 2012 | |
人身取引関連の捜査件数 | 95 | 70 | 83 | 305 |
起訴件数 | 17 | 79 | 67 | 27 |
有罪判決を受けた加害者数 | 18 | 12 | 10 |
資料出所:United States of America Department of State (USA/DS), Trafficking
in Persons Report, 2011, 2012, 2013.
予防(prevention)
タイ政府は予防(prevention)にも力をいれています。「反人身取引デー」には、日本の東京駅のような大きな駅で大々的なキャンペーンが行われます。人身取引対策委員会のトップは首相ですから首相がキャンペーンの先頭に立つこともあります。そのほかに人身取引教育センターを作るなど
して国民に対する啓発活動を行っています。というのも、タイ人の被害者は少なくないにもかかわらず、多くの人びとにとっては人身取引はそれほど身近な問題ではないのです。だからこそ、人身取引は重大な人権侵害だということについての啓発活動が必要なのです。特に、被害に遭う危険性が高い海外に出稼ぎに行く人たちに対して注意するよう呼び掛けることは重要です。タイ人被害者の自助グループの活動の一つとして、被害者が多く出ている農村に、講師として政府の人と一緒に行き、住民に自分たちの被害体験を話し、注意を促したりもしています。このような活動をすることにより、被害者自身自分が社会の役に立つという実感を得ることができ、より前向きに人生を再構築することができますし、聞いている人にも伝わりやすいのです。
おわりに―人身取引は日本の問題でもある
最後に強調しておきたいことは、人身取引は貧しいよその国の人の問題ではなく、世界中で起きている犯罪であり、犯罪が行われ被害者が住んでいるのは先進国が多いということです。日本でも起きています。従って、人身取引をなくすのは日本にいる私たちの責任なのです。
これまで日本で保護されてきたのはすべて性的搾取の被害者でしたので、性的搾取だけが人身取引の形態かと思われるかもしれませんが、人身取引は労働搾取や偽装結婚などいろいろな形をとります。たとえ自らの意思で出稼ぎに日本に来ていても、搾取の目的で働かせられ、脅し、騙しなどがあれば人身取引という犯罪なのです。日本では、最近若い人の中には仕事がなく、ちょっとだけ風俗に関わったところ、今度はそれを材料にして脅され、さらに仕事をさせられる、ということも起きていると聞いていますが、これは人身取引なのです。日本では就労機会も減っていますので、今後若い人は、人身取引の危険にさらされていると言えます。人身取引は決して貧しいよその国の人たちの話とは思わないでいただきたいと思います。
人身取引を考える時大事なことは、被害者は人権を侵害された人であること、被害者保護とは侵害された被害者の人権を回復することだということです。例え被害者が不法就労者や不法滞在者であっても、人権を回復するという視点が優先されるべきなのです。日本国憲法でも何人も奴隷的拘束を受けないということが書かれています。憲法は人身取引の問題に取組む時の法的な根拠です。
ご静聴ありがとうございました。
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